9.
香りの良い挽きたてのコーヒー豆と甘い果実の香りそれに混ざってチョコレートの美味しそうな匂い。それに気づいてクロモドは目を開けた。今は何時だ?オレンジ色の夕日が顔に当たって眩しい。慌てて勢いよく飛び起きると額に載せられていたタオルが滑り落ちる。
「クロモドさん、気がつかれたのですね!」
ナギが驚いて走ってくる。
「今何時だ?私は…いつまで寝ていたっ!?」
クロモドは髪を掻き毟ると、懐中時計を探そうとするが慌てていて見つからない。
「今夕方5時になるところです。」
「なんだとっ!私は何をしてっ…イベント準備…皆は?!」
ナギを押しのけると、慌てた様子でクロモドは立ちあがろうとする。
「…待ってください、まだ起き上ってはいけませんっ!熱が完全に下がったわけではないんですよっ!!」
ナギの言うとおりだった。頭が熱でズキズキ痛んで眩暈で視界が暗くなり、クロモドは膝を折った。
「…っ!しかし…行か…ないと。」
クロモドは激しく咳が出るなか、苦しげに胸を押さえて再び立ち上がろうとする。
「クロモド、大丈夫だ。用意はすべて整ったぞ!!」
勢いよくドアが開いて、大きな叫び声が飛び込んでくる。シュバルマンがクロモドの意識が戻ったことを聞いて、急いで走りこんできたのだ。クロモドが無理をして立ち上がろうとしている姿を見て、急いで体を支える。
「うあ…まだ熱があるんじゃないか?寝てなきゃ駄目だぞ。」
クロモドに肩を貸しながらシュバルマンが、子供を寝かしつけるように言った。
「私は…倒れたのか。シュバルマン、私が不在の中で…準備が全て整ったとはどういう?少し店の様子が見たい。」
シュバルマンは少し困った顔を浮かべてから、お店を見せれば納得しそうなので、クロモドを喫茶店のホールに連れて行った。
お店がピンク色と白の柔らかな色のリボンで装飾され、テーブルクロスも白の細かいハート柄で統一されていた。テーブルには白と赤のミニ薔薇が生けられており、女子店員はお店の色に合わせて可愛らしいヘッドドレス付のフリルがたくさんついたメイドの衣装が用意されていた。
『お帰りなさいませ、ご主人様っ(ハート)』
女子店員全員がクロモドの顔を見てあいさつした。思わず驚きのあまり店長の口が間抜けに開いてしまった。
「バレンタインデーは女子が中心ということで、メイド喫茶風にアレンジしてみたっ!」
シュバルマンがにっこり笑顔でグッドサインを出した。
「…やり過ぎじゃないか?よく承知したな。」
クロモドの顔が少し赤い、ツボだったのか店長も。
「これも、ライバル店に対抗するためですよ。可愛らしい衣装なので女子の客にも受けるのではないかと思います。」
アエルロトが腕を組んでその出来映えに頷いている。
「皆も快く練習してくれたぞ。うぁーイリシアさん可愛いよな…。」
シュバルマンが悶えていると、どうしても変態チックに見えてくるのは何なのだろう。とりあえず、蹴りをおみまいしておくか、クロモドは彼の背中を蹴りあげる。
クロモド店長、病み上がりのはずだったのでは。シュバルマンは勢い余って地面に倒れこんだ。
「それが狙いだったのですね…分かります。」
アエルロトが妙に納得したように頷いた。
「誤解だっ!というか…このアイディアはお前が出したんだぞ、アエルロト!!」
取り繕い方が尋常じゃないほど慌てているシュバルマンの指摘に笑ってごまかすアエルロトだった。
「それにしても…私が不在の中、良くここまで準備できたものだ。」
クロモドは完璧な仕事に感心する中に疑問も隠しきれない。シュバルマンはクロモドから視線をそらして言葉を濁すと、一つの本を取りだした。
「…これは、私の日誌じゃないか。」
「悪い、黙って見るのはいけない事だと思ったのだが…緊急事態だったんだ。実は、書いてあることを参考に俺たちなりに準備した。」
怒られることを覚悟で勢いよく頭を下げるシュバルマン。クロモドは少し眉間を寄せると黙ったままだ。
「ごめんなさいっ!私が店長の業務日誌をシュバルマンさんに渡したの、副店長を責めないでっ!」
シュバルマンにクロモドが何か言いかけた瞬間、ルコがクロモドの手を押さえると必死に説明した。
「店長、すまなかったと思っているっ!でも、この日誌を読んでいて、どれだけ店長がこのお店を愛しているのか、その気持が分かったっ!そして、俺は…っ。この喫茶店にとって、店長の存在が本当に大きかった事に気づいたんだ…。」
シュバルマンはまっすぐクロモドを見て言葉をつなげる。彼の言葉にクロモドは何も言葉を返さず、ただ黙って聞いていた。
「俺は考えることが苦手だし、店長がきちんと今日の準備計画を書いてくれて無ければ、俺は…何も出来なかった…。」
今回は自分の不甲斐なさを感じることしか出来なかったように思える。結局、店長がいないと自分など何もできない、ちっぽけな存在なのだ。クロモドは怒っているのだろう、黙ったまま何も言わない。勝手に準備をして、余計なことをしただけだったのかもしれない。

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